昭和45年12月18日 朝の御理解



 御理解 第45節
  世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 昨日、「わかば」十二月号が送ってきた。その扉のところに、現御広前金光様のお詠が、こういうようなお詠が、「こればかりのことと なるからによからんと 心許すに あやまち起こる」とあります。この位の事じゃからよかろうと言うような、心を許すところに、過ちが起こるというのである。信心をさせて頂いて、例えば、大きな信心と、大きな願いを持っておる程しの人ならば、もう必ず小さい所からでも、おかげを漏らす事のないように、心を使わなければならん。
 また、大きくおかげを頂いて行く人は、そこの所が出来ておらなければならんと思います。中途半端に限って、いわば、その辺のところを、平気で心を許す、そして、過ちを繰返す訳であります。今日、私は、この四十五節の、三宝様は実が実る程かがむ、それは、みが実るからである。だから、実が実る、その事が値打ちなのである。人間も、やはり、人間の値打ちというのは、身に徳がつく程と、また中身が出来るほど、かがんで通れとおっしゃる。辞を低うしておれれる。
 愈々、謙虚になれれる。それが、だから人間の値打ちだという事になります。ですから、どんなに立派な事を言うておっても、立派なようであっても、いわゆる財産を持っておっても、先生と言われてもです。その人に謙虚さが無くなったら、もうその人は値打ちが無いと言うこと。いわば、本当なものじゃないと言うこと、中身がない証拠だという事。こればかりの事、このくらいな事、その、このくらいな事を、私は、大事にして行く稽古が必要である。そこで、実るほど、かがむ人間も、中身が出きる。
 その人間の値打ちが、段々、ついてくると言う事が、人間の値打ちであるならば、いよいよ、中身が充実してくるおかげを頂かなければならん。これは、どういうような事になって来るだろうかと言うと、例えば、親鸞上人の生涯というようなものを尋ねてみますと、年をとられるに従って、自分ほどの悪人はないというように、悟っていっておられますよね。または、自分ほどの悪人は無いとも言うておられますね。
 だから自分のような、詰まらん者はないということが、いよいよ分って来る。ですから、そこに中身が出来るという事は、そういうような事だと。昨日の御理解の中にも申しましたように、自分の心の中に光がともる、信心の。その光が大きくなって行くに従って、世を明るくして行く事が出来ますと同時に、自分自身としては、光が大きゅうなっていけばいく程、自分自身の心の中が見え透いてくると言うのです。
 大きな光がつくのですから、いわば隅々まで埃がたまっておる所、汚れておる事が分って来る。なるほど人からは仏様のように、または神様の様に言われてくれば来るほどです。それは周囲がそれだけ、明かりによって潤うて来る。周囲に助かってくる人が出来てくるほどしの徳を受ける。沢山な当時の真宗に帰依している人達が、沢山な数であったでしょうが、そういう人達から生き仏様のように言われた親鸞が。
 年をとるに従って自分がもう本当に、世界一の悪人であるとか、自分のような愚凡の者はいないとかという風に悟っていっておるという事は、いかに心の中の光が大きゅうなっていったかという事が分る。その光に潤う者数知れず、多くなっていく。だからその光に潤う人達は、その上人様を生き仏様のように言うた。ところが、生き仏様自体、いわば親鸞上人自体は、もう愈々、自分のいわば悪人であるという事が分ってきた。自分が愈々良くない人間だと分っていかれた。
 私はそう言う様にですね、自分の心の中に光が大きくなって行くという事、その事が、私は中身だと思う。力が付いて行くと言うても良いでしょう。実力が出来て行く。だから実力が出来て行くその事は、これは有り難い事である。だからそれと同時に、今度は反比例して自分自身というものは、相済まん私という事になって来る。そういう私は信心を辿らせて頂いておらなければ危ないというように思うのです。
 言うならば小さい埃一つでももう見逃せない、はっきり見えるから。それが所謂自分の心が真っ暗であるから平気なもんである。この位な事とも気が付かない位にある。そしてそこに一角の大人振りというかね、先生振りというか分限者振りと言う様な、そこにいわゆる高慢ちきなそこへ慢心が出る。そこからおかげを落とすだけなら良いけれども、そのおかげを落とす、そこから間風が入ってくるとこう言うのである。
 障子が破れておる、そこからおかげが洩っていきよる。洩るだけならよいけれども、そこから今度は、悪いものが入ってくるという訳なんです。信心はやはり、私共人間の値打ちを高めていくもの、値打ちを作っていくものと言うてよいでしょうから。その信心を頂いて、信心の徳を身に受けていけばいくほど、これが信心の徳というものであろうかと思われる事は、自分自身の内容が愈々分かって行く事だと思う。
 自分自身が愈々分るから、所謂相済まん私いつも、実意丁寧にならねばおられないという事になる。ですからいわば私共が心がけなければばらない事。自分はまぁだお徳を受けてないし、心に光も頂いていないから、分らんからと言わずに、そこに今日の金光様のお詠があると思う。自分では本当の事は分らん、まぁこの位の事の様に思う。この位の様な事にと言う一言を、そんなら力をもっと頂いた人、光を頂いた人ならばですね、それをこればかりの事とは思わない。
 そこの所を押し頂いて通るようなあり方になって来るだろうけれども、私共は力の無い、まあだ分らない、それでもその値打ちを頂かせて頂く事を信心と思うて、信心を進めていき、お徳を受けていく事の精進をさせて頂く、その精進のところが、そこんところに、私は、こん位なこつだんと言うところをです。私共は大事にして行く事によって徳を受けて行く、力を受けていく。たったこの位な事ということを粗末にしない。
 そういう精進が、段々、必要になって来る。光を受けていけば、それは自分で分る。これ位の事と思わん、このようなお粗末なところに。おかしな話じゃありますもんね。例えば、皆さんと一緒に、お食事ならお食事を頂いておる。まぁ子供達と一緒に御飯を頂いておると言うてもよかろう。お父さんの私は、いわば先生である私は、それこそ、お皿の醤油一滴でも濯ぐようにして頂いておる。
 子供達はもうお汁は半分食べかけとる。もうとにかく捨てるより外に仕様はないと言った様なお粗末な頂き方をしておるという事実なんです。言うなら私の場合なんかは、それがどの位勿体ない物かという事が分っているから、お粗末に出来ない。ところが子供達は、それが解らないから、もうそれこそ平気で食べ物をお粗末にする。分からないから。そこでそんなら子供達がです分らない。
 分らないけれどもですお父さんが、あぁしなさるから真似でもさせて頂こうという事が、私はこればかりの事だから良かろうという様な事でないおかげを頂く事になると思うんです。私達の場合は、反古紙一枚でも大事にする。いわばせねばおられないのである。子供達は、それとは反対の、ろくそな事をしておる。それは子供達は分らんからなんです。けれどもさあそこが信心。
 分らんけれどもお父さんがあぁしなさるから、そうする事が本当であろうと言うような頂き方から、私は過ちを犯す事のないおかげが受けられるし、そういう生き方が、徳を受けることになり、力を受けることになっていくのだと思うです。もう十五、六年もそれ以上前だったかもしれません。御本部へ月参りをさせて頂いた時分ですが、ある御大祭にお参りさせて頂いた。
 所謂今の祭場じゃなしに、昔の広いトタン屋根の大きな広い祭場に茣蓙を引いて座って拝むという時代。もう行ったらいっぱいです座る所がない。秋永先生と二人で前の方へ行こうじゃんの、前の方が空いとるそこは来賓の人達が掛ける所で、前の方に席が取ってあった所に、来賓の方達が見えてないからそこだけ空いていた。だからここに来なさるまでは、ここから拝もうじゃなかと言うてそこから拝ませて貰った。
 間もなく、金光様が、先導する先生達に先導されながら、お装束をお付けになって祭場に進んで見えられた。そしたら、私共の、ほんなすぐ前のところに来たら、もうここにこうやって、お出でになっておられるんですよね。参向されておられる訳です、祭場に。そしたら、ちょっと屈んでから、何かを拾われた。それが私の側じゃから分かる。このくらいばっかりの藁しべがね、廊下のここんところに落ちとった。
 それを金光様がちょっと拾われてから、袂の中にお入れになられた。私は、横に居る秋永先生に申しました。金光様の素晴らしい事は、あそこですよ、秋永さんと言うて話した事でした。もう金光様は、目の前に、この位な藁しべが落ちておったら、もう前には進んで行けられないのです。程しに、いうならば、心の中の光が大きいから、隅々にまで、そういう事がお分かりになられる。いわゆる、神の意にわだかまる。
 神様のこれが祭場、しかも自分が歩いて行く前に、そういう藁しべが落ちておったという事を見逃しなさらない。そして願いと言えば世界中の事を、世界真の平和を願うておりますと。世界総氏子の総助かりを願うておりますと、仰せられる程しの大きな願いを持っておられるから、もうこの位ぐらいのこつ段よかろうという事になろうけれども、そうではなくて、反対に、それはそれは、それこそ藁しべ一本の事にでも、自分の心が許されない程しに、厳粛な厳格なものでおありになったという事なんです。
 私共はそこに、大きな物があったっちゃけちらかして、こういくぐらいのもんじゃないでしょうかね。そるきん、何時でん、生爪剥いどらにゃならん様な事になってくる。私は、折角信心をさせて頂くのですから、もう信心が、いわば人間の値打ちを作って行く事だと思う、極言するならね。それは、どういう事かと言うと、いわば、いよいよ神徳を受けて行くという事。
 ですから、徳がついてくればついてくる程、かがまなければ中身が立派になっていっておるという程ではないのに、大抵、自分はもう立派になったごたると思いよるに、頭がもし下がらんとするならです。これは、ちょっと可笑しいいと気付かせてもらい。自分の悪かとこは一つも見えんごとなってきたらです、いよいよ、私は、可笑しい事だと思う。本当に中身が出来て、そして、謙虚な生き方が出来ると。
 そういう私は、願いを持って信心をさせて頂かなければいけん。ところが、反対に、生兵法という事を申しますよね。少しばかりの事が出来るようになる。少しばかりの事が分って来ると、非常に横着になりますね。非常に、信心なら信心ががですね、ドライになります。もう、この位な事とも思っていないですね。平気になるんです。信心ばかりは、もう、いわゆる、ドライな信心では信心が進みません。
 いわゆる、身に徳は受けられません。それこそ、少しは古風なようでありますけれども、やはり、昔の先生方が御徳を受けられたという方達の生き方と、信心の進め方といったようなものを、やはり手本にして行かなければ行けない。手本にして進んでいきよるうちにです。その事が分って来る。いわゆる真似ておるうちに、それが分って来る。いわゆる、値打ちが、段々、のある内容が出来てくる訳です。
 天は高いから、頭を打つ事はあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振り上げたりすることはないが、油断をすな、慢心が出るとおかげを取り外すぞと。大声で叱られておっても、いわゆる、神様にお気付けを頂いておっても、そのお気付けをお気付けという風に頂かずに、あちらが悪いから、こうなったと言った様な考え方をする、言い訳をする。例えば、鴨居で頭を打つ、神様がお気付けを下さりよると頂けば、すみませんが、すぐ出らなきゃならんのだけれども。
 鴨居が低かったけんで頭を打ったように言う。これでは信心が進展しません、進んでいきません。三宝様は、実るほどかがむ。それは中身が出来てくるからかがむのである。穀物です。稲穂粟の穂と言うのが、実が実ってくればくるほどこう頭を下げる。それは実るからである。私共も本当な事が分り、本当な事を行じさせて頂いて、本当の生き方が出来ると言うことがです、いわゆる中身が出来てくる。
 中身が出来てくるから、出来てくれば来るほど謙虚になるほど頭が下がる。そういう生き方が、私は本当の人間の値打を作っていっておる人の姿であると思う。それを信仰的な言葉で、私が表現しましたのは、心に光が出来る。心に光が出来るから、その光に照らされる自分の心の内容というものが、その光が大きくなれば大きくなるほど、隅々にまで自分の至らなさ、相済まない自分という事が分って来るようになる。
 相済まない自分であるという事が分ってくれば来るほど、だから謙虚にならざるを得ないのである。それが所謂本当な事なのですけれども、私共は中々そういう事が分らない、分らないから、例えば今日金光様の御言葉の中にありますように、私共の一つの心掛けとして是ばかりの事と、もうこの位の事だからと言うていい加減にする様な事をしないで済む精進。そこの所を実意な心をもって押し頂いて通るような生き方。
 そういう生き方を身につける。成程お父さんがああして小皿を濯いで頂きよんなさるから、分らんけれども僕達も矢張り濯いで頂こうと言う様な、私はいきかた、そういう精進が、私は、段々心に光を受けて行く事になり、力を受けて行く事になると、こう思うのです。人間の値打ちは、中身が出来ること。中身が出来たら愈々謙虚になるという事。親鸞上人様ではないけれども、もう愈々自分程しのつまらん。
 又は自分の様な悪人はおらんとまで、自分の中の心の悪というものを分る様になって来る。その頃にはその人の周囲には、沢山な人が生き仏様の様に、その光に潤うて来る様になる。金光様のお詠をもう一辺読んでみます。「是ばかりの異なるからに よからんと心許すに過ちおこる」と。どうぞ過ちの元はもう必ず小さい事を、よかよかと言う位な行き方で行く所に、過ちの元がある事を知らなければなりませんですね。
   どうぞ。